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 BoA(ボア)

보아     

  
PROFILE






ボア 本名:권보아 1986.11.05 BoA





1集


デビュー当時

'ID Peace B'

後続曲'サラ'



1.5集


'Don't Start Now'


2集


’No.1'


2.5集


'Miracle'


3集


'アトランティス少女'


4集


'My Name'


5集


'Girls On Top'


6集

'Hurricane Venus'


7集


'Only One'


  「BoAはK-POPに入れたくない」。最近の若い女の子が最近のK-POPブームに乗っかったときに発言したものだ。


 確かに日本で日本語を歌う彼女はJ-POPであるが、それが本国韓国ではどうなのかと問われれば、明らかにK-POPオンリーである。


 K-POP創生期にデビューしてから、彼女はそのK-POPの発展とともに自らを成長させていった。くわえて偏見をもった一般日本人に初めて、「韓国でもこんなカワイくて、歌のうまい子いるんだね」と言わしめた最初のアーティストであり、その偉大さは筆舌に尽くしがたい。まさにクィーン・オブ・Kポップである。


 当時、小学5年生だった彼女は兄を通じてSMエンターテイメントを知りオーデションに応募。H.O.TやS.E.S、シンファを抱えすでに業界No.1事務所だったSMエンタは韓国国内だけではなくアジアで大型スターを生み出す戦略をたてていた。


 そのため兵役がある男の子より女の子の方が有利とみたが、外国語習得も含め、トレーニング期間が3年以上はかかるので、オーデションを受けに来た10代の若者の妹まで調べあげ、ローティーンの女の子に狙いを定めたのだった。


 その絶え間ない事務所の努力の末、BoAを探しあてたのだが、両親は勉強のできるBoAにそのまま進学してほしかったので猛反対。事務所は『絶対に成功します。彼女は宝石なので、このまま埋もれさせるわけにはいかない』と、確信に満ちた説得を続け、両親もこれにようやく同意した。





 ワールドスターを目指した集中トレーニングは過酷を極める。まず、最初にBoAが習ったのは歌でもダンスでもなく、外国語。家庭教師をつけて英語と日本語漬けの毎日だった。小学校を卒業すると、9月に入学する外国人学校が始まるまでの半年間、東京に滞在して日本語だけでなくダンスと歌を徹底的にトレーニングを受けた。


 ダンスコーチはBaby V.O.Xでもおなじみの佐久間浩之氏が担当、佐久間氏曰く「ダンスを踊りながら歌う女性シンガーでBoAほど力の持った歌手はいない。この歳でここまで踊れる子はいなかった」と言わしめた。


 そしていよいよ、00年8月13歳のときに韓国での1集『Id:Peace B』が発売、タイトル曲はSMエンタ所属の稀代の名作曲家ユ・ヨンジンによるもので、いきなり音楽番組のチャート5位圏内に上り詰めた。人気の要因は、元気を与えてくれる彼女の明るいキャラクターはもちろんのこと、98年以降の第1次K-POPブームはアイドルグループは乱立していたが単体女性アイドルはまだ誰も地位を確立できてなかったことが挙げられる。


 後続曲‘SARA’も好調のなか、翌年01年初め1.5集となる『Jumping into the World』を発表、タイトル通り世界に向けての準備アルバムと位置づけ韓国語、英語、中国語のバージョンが収録されている。





 01年はこのあと5月から日本デビューが控えており韓国国内の活動は一旦休止。その間、日本では7枚も(競作含む)怒涛のシングルリリースがされ一気に知名度が上がる。


 そして、02年日本1stアルバムが3月に発売されオリコン初登場1位を記録したのを確認した後翌月4月に韓国2集『No.1』が発売された。高揚感のあるメロディのこのタイトル曲は、またたくまに各音楽番組で1位を獲得。


 しかしその年は、FIFA2002ワールドカップ韓日共同開催を目前に控えていたこともあって日本でのBoAの需要が一気に高まり(深夜音楽番組で司会も担当)、頻繁に韓日を行き来しつつ音盤は2.5集『Miracle』のように日本発売したものを韓国語で歌い直す逆輸入的な押し付けとなり、評価は芳しくなかった(本人も韓日同時活動の過労で喉を酷使していたため状態も良くなかった)。





 それでも日本ではトップスターへの階段を着実に歩んでいたBoAは韓国での人気も並行して持続させるため超多忙であっても韓国盤は韓国作曲家の完全オリジナルを目指すべく03年3集『アトランティス少女』を発売し大ヒット。


 このアルバムからのちに少女時代のデビュー曲を担当することとなる【Kenzie】が作曲家デビューしている。しかし、その年は3.5集『Shine We Are』も、maxi『Double』『Rock With You』もハングル歌唱ではあったものの前述した焼き直しだったのでチャートを揺るがす大ヒットには至らず、生産枚数自体少なかったこともあり挨拶程度に発売された感が強い。





 日本での活動は別の人に譲るとして、韓国では翌年04年4集『My Name』をKenzie作詞作曲で発売、スリリングな曲構成と燃え上がるようなダンスで1位を記録した。


 それは次の05年発売された5集『Girls On Top 』も同様で、タイトル曲はユ・ヨンジン、後続曲‘Motto’はBoA作詞Kenzie作曲、どちらもK-POP名曲として断言でき、私は4集5集のこの2枚を是非オススメしたい。


 さて、その後08年までの4年間は日本を中心に活動し韓国オリジナル発売はなし、その理由はかねてからの夢であった米国デビューに向けての準備があったからで22歳のBoAは08年10月‘Eat You Up’でその夢をかなえた。小学校で事務所に入ってから苦節12年の遠回りは涙なくしては語れない。


 しかし、まあ日本人もそうだったが米国に憧れたところで所詮はアジア人は部外者的な受け入れられ方しかしない。そう思うと昨今のK-POPブームでハングルのまま通して世界を席巻してる少女時代などのやりかたの方が英語を学んで猿真似で歌うより実は正論なのかもしれない。


 ということで、案の定、英語歌いのBoAは米国では支持されなかった。すごく激ヤセしていた当時のBoAをかなり心配していたが、米国進出が失敗であったにしろ、世界を知るということは彼女をまた一歩成長させ、深みを増しさせたに違いない。





 翌年10年8月には5年振りとなる韓国6集『Hurricane Venus』を発表、非J-POPでブレずに最高の完全K-POPを届けてくれ、その2年後の2012年には7集でリーダー曲'Only One'を自ら作詞作曲で手がけ大物ぶりを発揮した。


 現在、彼女は巨大な所属事務所SMエンターテイメントにおいて、イ・スマン社長の下、序列的にはユ・ヨンジン、カンタについて3番目だという。本当に大きくたくましいアーティストに成長した。彼女こそK-POPを体現し得る数少ない戦士である。


   







【秀麗韓(スリョハン)】





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